文殊菩薩から抜粋
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「かけがえのない地球」という。野にバラが咲きウサギが飛び跳ねる。空には鳥が、大海原をサカナの集団が流れる。柔らかな太陽の光、雲に覆われた地球は私たちの宝である。

地球が誕生した時、空気は二酸化炭素でできていた。その二酸化炭素を食べて生物という「命」が誕生した。37億年前のことである。それからズッと生物は二酸化炭素を食べて命をつなぎ、現在に至っているが、あまりに長い年月だったので、最初は空気の95%(ほとんど)が二酸化炭素だったのに、今では0.04%(ほとんどゼロ)になってしまった。

私たち人間は二酸化炭素を食べることができないので、稲に二酸化炭素を食べてもらい、それでできた米粒(炭素)を頂いている。だから人間というのは大したものではないが、一つだけ命をつなぐのに優れた役割を果たしている。それは地下から石油や石炭を掘り出して燃やし、二酸化炭素をもとの空気の中に戻すことができるからだ。

生物は37億年、命をつないできたが、その途中では二酸化炭素を減らす生物しか誕生せず、もし人間が1億年ほど遅く誕生したら、地球の生物はすべて絶滅しているだろう。もちろん人間も誕生していない。

かつて空気中にあった二酸化炭素を生物が自分の体にして、それが地中に埋まっていたもの・・・石油や石炭・・・を掘り出して、それを燃やし、もとの空気に戻す生物・・・人間・・・をこの世に登場させた。この地球のすべての生物が死に絶える寸前に、二酸化炭素を増やすことができる生物を登場させるのだから、神業であることは確かだ。

今、「二酸化炭素を減らそう」とか「低炭素社会」などと言っている人は、なにを考えているのだろうか?と不思議に思うことがある。お金を中心にものを考える人ならまだしも、環境が大切とか命を守ろうといっている人は植物がこんなに薄い二酸化炭素のもとで呻吟しているのが肌で感じられないのだろうか?

(平成26年10月17日)
武田邦彦 


子供の頃は、落ち葉を集めてたき火をして焼き芋を作ったり、地域の人総出で川土手を野焼きしたり、そんな光景が季節の風物詩でした。

最近は、草木灰作りたくて、刈り取った草や枯れ木を燃やすのでさえ、後ろめたくて、人のいない時間帯を見計らってコソコソっとやってるような状況です。

たき火したり、薪ストーブ使ったりして、もっと二酸化炭素増やしてあげなくっちゃいけませんね。

去年、祖父母の住んでた古い家の物置から、ほこりまみれの黒ずんだ火鉢を引っ張り出して磨きました。
何の木かわからないけど、木をそのまま輪切りにして、中をくり抜いてあるものです。
今や骨董品になっているようですね。子供の頃の記憶では、もっと淡い色をしていましたが、雑巾で磨き上げたらきれいな飴色に変わっていました。この火鉢のそばに座って、キセルをくゆらせながら来客と談笑していた祖父の姿が目に浮かびます。中の灰も昔のまんま・・・
今はインテリアとして置いているだけだけど、いつか火を入れて使いたいと思っています。
火鉢や薪ストーブやいろりのある暮らし・・・いいな。